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印西市の歴史【木下貝塚からひも解く印西のむかし】

印西市は古くから利根川水運の宿場町「木下河岸 (きおろしがし)」と呼ばれ、銚子から江戸への中継地点として栄えてきました。近年では、千葉ニュータウン地区の地盤が強固とされることから、災害へのリスクヘッジとして、大企業のデータセンターが市内に集まり大規模な開発が進められています。そんな印西市のあゆみをふりかえってみましょう。

 

木下貝層からひも解く印西のむかし

 約12~13万年前、関東平野には「古東京湾」呼ばれる大きな海が広がっていました。印西市周辺も古東京湾の一部だったとされています。その海の波や潮の流れによって貝殻が堆積した地層に「木下貝層」があります。印西市木下で最初に調査されたので、この名前がつけられました。この地層に含まれる貝類の化石にはバカガイ、ヒメアサリ、アカニシ、ハスノハカシパンなどがあります。印西市域では当時生息していた貝類を中心に化石が出土しています。木下貝層は石材としても利用され、市内には貝化石層を切り出して作った石灯籠などがあります。

 その後古東京湾は、地球の気候変動による海面の低下や、陸地の隆起などを繰り返して現在の地形になりました。

―木下貝層の表面は堅く固まっていることが特徴の一つで、古くから古墳の石室石材や石灯篭、江戸時代の利根川の大規模改修工事などに利用されていたそうです。歴史的に貴重であることはもちろん、地域の石材としても重要だったんですね。

江戸時代には木下河岸が栄える

 印西市域に人が住み始めたのは、およそ3万年前の旧石器時代です。弥生時代には現在の手賀沼・印旛沼周辺に水田が形成され、そこから見下ろす台地にムラが形成されました。当時の遺跡の多くが印旛沼の周辺で発見され、当時の人々の暮らしを垣間見ることができます。

 奈良時代、印西市域は下総国印旛郡に属していました。平安時代中頃に印旛郡は印旛沼を堺に北西部が印西条(現在の印西地区・印旛地区・本埜地区西部・白井市東部)と東南部が印東条(現在の佐倉市・酒々井町・富里市西部・成田市南西部)にわかれました。

 江戸時代に、徳川家康による利根川の大規模な河川改修で、利根川が江戸湾から銚子方面に付け替えられ、印旛沼と手賀沼が形成されました。これにより利根川の水運が発達し、河岸として木下河岸(きのしたがし)が設置されました。木下河岸は銚子街道の中継所で、銚子とは船で連絡し、江戸とは陸路で結ばれていたので、交通の要衝として栄えました。明治時代には、成田鉄道が開通し、木下駅・小林駅が開業し、木下駅周辺の街並みが形成されていきました。

―昔は印西条・印東条という地名で分かれていたんですね。長い歴史の中で「印西」という地名だけが残ったということがわかりました。

住みよさランキング1位の印西市へ

 印西市の前身である印西町は、1954年、木下町、大森町、船穂村、永治村の一部が合併し誕生しました。そのころ高度経済成長を迎えた日本は、都市への人口集中が問題になっていましたが、印旛沼周辺のなだらかな台地が注目され、住宅団地として千葉ニュータウンが建設され始めました。ニュータウンへの入居開始から人口は増え続け、1992年には人口5万人を突破しました。

1996年に市制が施行され、2010年に印旛村、本埜村との合併を経て、現在の印西市となりました。市制施行された1996年当時の印西市の人口は、約5万9千人でした。

 印西市は東京と成田の中間に位置し強固な地盤の上に広がっています。都市や空港へのアクセスの良さと、災害にも強い土地として企業や商業施設が進出し、若い世代を中心に移り住む人が増加し、平成30年には人口が10万人を突破しました。住みよさランキング(東洋経済新報社)においても高く評価され、全国的にも注目されている市になっています。

―住みよさが高く評価されている印西市。街並みは美しく、道路も広く整備されています。今後ますます成長・発展していく印西市に目が離せませんね!

この記事を書いた人

さわ@チイコミ

チイコミ編集部在籍。千葉県に住み始めて約15年。2人の元気娘を育てています。趣味は水引アート。海外ドラマを観るのも大好きです。地域の情報をお届けしたいと思います!

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