東金市は千葉県のほぼ中央部に位置する人口約6万人の市です。江戸時代、徳川家康の鷹狩りのために造られた「東金御成街道」によって、船橋-東金-山武が一直線に結ばれ、問屋町として発展してきました。ここでは東金市の歴史についてご紹介します。

東金のはじまり
東金市域の旧石器時代や縄文時代の遺跡は、丘陵地帯に数多く残されています。これは、当時の市域は遠浅の海にあり、海に突き出していた丘陵地帯に人々が生活していたということを物語っています。 人々は暖かな気候に恵まれた環境で、狩りや漁をしていました。
弥生・古墳時代に入ると、地球の気温変化によって海岸線が後退し、陸地が広がりました。 人々は生活の場所を丘陵から平地へ移し、田や集落を築きはじめました。
―古墳時代から平安時代までの貴重な集落が丸山遺跡で発見されました。この遺跡を利用して作られた丸山公園は市民の憩いの場になっています。
「上総の黄金町(こがねまち)」とうたわれた江戸時代
鎌倉時代、東金市域は北条氏、室町から戦国にかけては酒井氏の勢力下にありました。特に酒井氏は5代にわたって東金の地を治め、城下町として東金の礎を築いたとされています。
その後、戦国時代末期には、徳川氏の支配下におかれます。

江戸時代、徳川家康が鷹狩りのために船橋-東金-山武を一直線に結ぶ「東金御成街道」が造られました。この道の誕生によって、九十九里の海産物が東金に集まり、江戸へ運ばれるようになります。東金は宿場町・問屋町として発展し、「上総の黄金町(こがねまち)」とうたわれました。
商業・農業のまちとして発展した東金ですが、文化交流の地としても知られるようになります。

徳川家康が東金御殿を築造する際に、池を広げて造った御殿池「八鶴湖」には、多くの学者が集まり、文化や教育が浸透していきました。「八鶴湖」は中国の西湖を彷彿とさせる光景から、幕末の文人遠山雲如や梁川星巌によって「小西湖」と称されることもあったようです。
また湖の畔にある八鶴亭(旧八鶴館)は、明治期に創業した老舗旅館で、当時は北原白秋や伊藤左千夫など多くの文人墨客が訪れました。現存する建物の多くは有形文化財に登録されています。
―現在、八鶴亭はフランス料理が味わえるレストランに生まれ変わっているそうです。歴史風情あふれる建築物で、コース料理を楽しめるなんて、素敵ですね。
東金市の誕生
東金市は昭和29年4月、県下13番目の市として誕生しました。東金町と、福岡村・源村の大部分が合併し、当時の人口は3万4681人でした。
東金市誕生後、市としての基礎づくりとして、市営ガス、道路網の整備、中学校の統合、土地改良などが進められ、人々の生活の安定につながりました。
交通の面では昭和48年、東金バイパス(現国道126号線)が、昭和54年には千葉東金有料道路が開通し、東京方面へのアクセスが飛躍的に向上しました。明治33年に完成した東金駅は市の中心駅となり、現在千葉駅までは約35分で結ばれています。交通の便が向上したことで住宅地の開発も進められ、現在の東金市街地は活気とにぎわいを見せています。
またこの時代には両総用水という大きな事業が進められました。
九十九里平野には大きな河川はなく、多くの水田はその水源を雨水に頼っていました。そのためこの地の農家は、雨が降らなければ渇水、降れば湛水という天候の影響を受けて不安定な営農を強いられてきていました。
このような状況を打開するために進められたのが、遠く利根川から水をひき、田畑をうるおす両総用水事業でした。
完成した両総用水は、長年にわたる九十九里平野の干害や旧佐原市周辺の水害から人々を守り、農業生産、地域の営農を支える重要な農業用水となっています。
―両総用水がない頃は、当時の農家さんは天候に左右されながらとても苦しい農業を続けていたことを知りました。両総用水のおかげで、九十九里平野の農業が安定し、私たちは美味しいお米や野菜を食べられるんですね。


